GALESPEED Type-N & PIRELLI Angel ST
休日の早朝。いつものように車庫へ行き、シャッターを開けるとポールスマートのシートの上に1枚のメモが置いてある。「aokiumitosora様へ タイヤ&ホイール交換しました。新品タイヤは滑ります。皮むきのため150kmほど慣らしが必要です。急のつく運転をしなければ大丈夫です・・・・」というようなメモ書き。
純正のスポークホイールはクラシカルで気に入っているのだが、重いのとタイヤがチューブタイヤなのでパンク時のリスクを考えるとタイヤはチューブレスにしたい。そこで思い切ってタイヤ&ホイールを注文していたのだが、ホイールが受注生産ということで、すっかり忘れた頃に交換されていた。ショップオーナーの心遣いに感謝しながら、皮むきの鳴らし走行に出る。
早朝は風も涼しく気持ち良いが、未だに乾式クラッチには気を使い、信号待ちからの発進時は緊張する。アクセルを開けてスパッとクラッチを繋ぐ。回転が低いとエンストして立ちゴケの恐れがある。1回やっているだけにこれには一番気を使う。逆に回転が高いと車重が軽いだけに簡単にウィリーしてしまいそうで怖い。そこで半クラッチを長めにしてしまうとグググとブレーキがかかったように前に進まない。クラッチへのダメージも大きそうだ。
エンジンの回転が合ってスパッとクラッチが繋がれば、ポジションをしっかりとしていないと後ろに振り落とされるぐらいの加速をして、同時に発進した車は遥か後方に。バックミラー越しでは見る見るうちに小さな点になっていく。しかし、しくじれば原付にも先を越されてしまう情け無さ。低速での取り回しとクラッチ&アクセルワークが当面の朝練の課題である。
朝練は暑くなってくるお昼前には切り上げて、高速道路を使って車庫へと帰還する。
ホイールはアルミ鍛造のゲイルスピードのType-N、最新のテクノロジーで軽さと強度を実現しつつ、6本スポークのノスタルジックなスタイルがポールスマートにもマッチしている。
タイヤはピレリの新タイヤであるエンジェルST、ウェット性とグリップ性を両立させ、しかも超ロングライフというハイスペックツーリングタイヤである。名前の通り天使の輪がタイヤに彫られており、この天使は1000kmほどで消えて、今度はディアブロ(悪魔)が顔を出すそうだ。タイヤの溝の矢印は悪魔のシッポらしい・・・。
朝練、海へ
休日は早朝から足繁く車庫へと通う。と言うのも自宅アパートの駐車場では、ポールスマートを保管するには盗難の心配があるので、ショップオー ナーのご好意で車庫をお借りしているのだが、自宅から40分ぐらいかかる。少し遠いが盗難と塩害からの不安は解消される。
この日も朝6時に家を出て、車庫へと向かう。最近はあまり行かなくなったが、早朝の海へ向かうよう気持ちの高まりがある。そうだ、今日の朝練は海へ行こう!国道へ入ると車も少なく、ついアクセルを開け気味になるが、これ以上はだめだと大人の自制心が働く。アクセルを戻しシフトダウンするとポポポーンとアフターファイヤーが小気味良い。低速域でも官能的なサウンドを奏でてくれる。
PaulSmart 1000LE 納車
先日、ポールスマート1000LEが納車された。
ポールスマートとは、’72イモラ200マイルレースでドゥカティがワンツーフィニッシュを
飾ったときにゼッケン16番を付けたF750に乗り、優勝した往年の名ライダーである。
イモラ200マイルレースでポールスマートが乗っていたマシンをモチーフとして
’73年に少量生産されたイモラレプリカ750SS、初代SSとして登場する。
ポールスマート1000LEは、そのイモラレプリカ750SSをモチーフとして
2005年〜06年に2000台限定で生産された。
うち600台が日本市場で販売されたらしい。
当時、初代SSをバイク雑誌で見かけたときは、一目惚れしたものの所詮、高嶺の花で
実車を街で見かけることもほとんど無く、タミヤのプラモデルを作って細かいディテール
を知るのがやっとだった。それから興味はオートバイから車へと移り、うん十年もの
時が過ぎオートバイへの興味は薄れたままだったが、たまたまネットで見かけた
初代SSをモチーフとしてデビューしたスポーツクラシックシリーズの存在を知った
ときには昔の記憶が鮮明に蘇った。当時はなにもせずにあきらめてしまったけど、
今度は正式にプロポーズしよう。しかし、時は遅し。
スポーツクラシックシリーズの生産は終了しており、中古車を探すしかない。
と同時に二輪免許も取得しなければならなかった。
こうして典型的なリターンバイカーズとして、これからポールスマート1000LE
と付き合っていく、いや付き合ってもらうこととなる。
MAGFORCE MF-0401
自動二輪の教習所へ通い始めて2ヶ月が過ぎ、ようやく大型二輪免許が取得できた。
同時に購入するDucatiの車種も決まった。ポールスマート1000LEである。
車検も通り、あとは納車を待つだけだ。オートバイについては、納車後にまた詳しく
ご紹介したいと思う。
ポールスマートはロケットカウル装着のカフェレーサーで、ポジションはかなりの
前傾姿勢となるので、ちょっとした荷物を持つのもリュックタイプのバッグだと
担ぎにくいし、ウェストポーチなどは見た目もあまり良いとは思えないので、
いろいろ探していてたどり着いたのがMAGFORCEのレッグポーチである。
MAGFORCE社はOBM(軍需品の品質規格)に基づいて製品開発しており、欧米の
法執行機関からもその高い耐久性と機能性を信頼され、オプションギアとして支持
されている。
自衛隊レンジャー隊員も個人装備に選んでいる
Sailboat
ヨットを操船するiPhoneのゲームアプリである。ゲームの類にはあまり興味がないし、ましてやiPhoneの小さい画面でゲームなどしても面白くないだろうと思っていたが、このSailboatはなかなか良く出来ている。Yachtsman、Steersman、Skipperと三つの操作モードがあり、定められた時間内にマーク(ブイ)を回航してフィニッシュすると次のモードへ進める。
最初のYachtsmanはシート(ロープ)を操りメインセールのトリムだけを行い、Steersmanはラット(舵輪)の操作のみを行う。Steersmanとはあまり聞き慣れない言葉なので、調べると舵手と言う意味がある。ヨットのポジション的にはHelmsman(ヘルムスマン)になる。そしてSkipper(スキッパー)意味は艇長であるが、二人乗りのディンギーではヘルムスマンにあたる。
このゲームではSkipperになると右手でラットを操り、左手でシートを出したり引いたりしてメインセールをトリムする。一人乗りのディンギーを帆走させている感覚で、風向きを見ながら船をコントロールして、決められたコースのマークを回航し、フィニッシュまでのタイムを競う。実際のヨットでもそうだったが、マーク回航のショートよりロングの航海のほうが好きだった。
ちょっとセールが開きすぎだが、このあとジャイブしてマーク回航
このゲームをやっていて思い起こすのが、過去に社会人ヨットチームに所属していた頃の懐かしい思い出である。最初に乗った船は36フィートのクルーザーで、クラブレースに参加したりクルージングに出かけたりと週末は決まってハーバーで過ごしていた。一通りヨットのあれこれが分かって来た時に、同じチームのクルーからヨット回航のアルバイトを持ちかけられた。時期は確かゴールデンウィークの頃だった。
アルバイトの内容は、GWの後半に油壺でヨットレースの大会があるので、それに合わせて関西から遠征する船を油壺ヨットハーバーまで回航(乗って運ぶ)すると言う。期間は確か二泊三日予備日1日で報酬は帰りの新幹線代は別で1万円との事だったが、お金なんかはどうでもよかった。ヨットで長距離の航海に出られると言うことだけですぐに飛びついた。
艇長(プロの回航屋)以下、クルー3名の計4人で、ヨットは当時最新鋭のNZのエリオットで新艇なので、レースに備えてのシェイクダウンも兼ねての回航である。大阪湾から紀伊水道を抜けて潮岬、石廊崎、三浦半島を目指す。陸からの風の影響を受けないように沖へ出て、黒潮に乗って一気に東へ針路を取るというコースだった。
食料、水、燃料を積み込んでオーナーに見送られながらハーバーを出航した。最初の難関は紀伊水道、大型船の往来が多く、メインセールを上げ機走するが、風と複雑な潮と波で船は大きく揺れてすぐに船酔いしてしまう。紀伊水道を抜けると初めての外洋である。今までは湾内や内海でのセーリングばかりだったので、360度見渡しても海しか見えない外洋に興奮し、今までとは全く違う冒険的なヨッティングである。船は強風を受けて大きく傾くが、風速風向ともに安定しているので、慣れてくると徐々に恐怖心も薄れ船酔いも治まり、艇速もぐんぐん上がり気分もハイになる。今までのヨッティングはなんだったのか。井の中の蛙とは正にこのことだ。
二名一組で、24時間を3時間ずつ交代でワッチ(見張り)と舵を握る。潮岬沖を通過する頃には風と共に雨が降り出し、風雨はどんどん強くなる。艇長は危険と判断して勝浦港へ緊急避難する。夕方に入港し船で仮眠をして、風雨が収まった夜に再び港を出るが、港を出た途端に猛烈な突風にあおられて船は大きく傾き、マストにしがみついてセールを降ろしていると、艇長が全員ハーネスを付けて落水に注意しろと叫んでいる。今思えば当時はむちゃだった。外洋に出てもライフジャケットやハーネスを付けていなかったのだから。この数年後に当時日本を代表するヨットマンの難波誠氏が、外洋レース中に落水して行方不明となる事故があり、着用義務があったライフジャケット、ハーネスを付けていなかったと後に非難を受ける。還らぬ人への非難は酷だが、この事故を機にハーネス式のライフジャケットの着用が広まったように思う。
船は再び勝浦港へ引き返す。港へ戻ると舫いを取ってくれる人がおり、こんな夜中に天候も悪い中、ヨットが出航していくから心配して待っていてくれたそうで、案の定、戻ってきたねと言われて、なんともお恥ずかしい。しかしとても親切な方で、自分の所有する大型のクルーザーに招いて暖かい飲み物を出してくれて、今晩はこの船で寝ていいと言ってくれるが、そこまで甘えられないと丁重にお断りしてヨットに戻る。薄いマットレスの簡易ベッドでも水平に眠られるだけでも有難い。
早朝に勝浦港を出て、目指すは石廊崎。風は追い風で舵を交代しながらトップスピードの競い合いをする。波を利用して船をサーフィングさせると面白いように艇速は上がる。記憶は曖昧だが20ノット近く出ていたのではないだろうか。セーリングは順調で石廊崎沖を通過する頃に日が昇り始め、相模湾に入ると定置網が多いのでセールを降ろして機走にしようとエンジンのスタートボタンを押すが、エンジンがかからない。風は相変わらず強く、ベアポール(マストにセールが上がっていない状態)でも風を受けてどんどん流される。もう目前には定置網の海域が広がっている。このままでは定置網に突っ込んでしまう。艇長がセールを上げろと叫んでいる。なんとか間に合った。
相模湾は湾内と言え相当風が強いという印象を受ける。普段は大阪湾でのセーリングだから無理もないか。いったん沖へ出してエンジンの修理をして、無事に機走で油壺ヨットハーバーへ入港する。ハーバーへ入る水路で、出航するヨットとすれ違う。こちらはもうヘロヘロだが、向こうは爽やかに手を振ってくる。手を振り返しながら、J24(24フィートの小型のレーサー)でこんな強風の中でも練習に出て行くのか。さすが油壺のセーラーは凄いな。
ようやく油壺ヨットハーバーに到着。かつて裕次郎氏が所有していたコンテッサXが舫われている。いつか来て見たかった聖地、油壺にヨットで来られるなんて感無量である。下船の準備をしていると先ほどすれ違ったJ24が戻ってきた。さすがにあの強風では無理があったようだ。